志づか堂 三代目社長 三味線職人 酒井昭義 に聞く

「先輩方の足跡を知りたい、もっとお話を聞きたい!」という思いから始まったこのイン
タビュー企画も、おかげさまで第三弾を迎えることができました。

今回は、創業100年を誇る琴・三味線専門店/志づか堂、三代目社長であり三味線職
人の酒井昭義さんにお話を伺ってきました。

現在も全邦連(全国邦楽器組合連合会)の会長を務める酒井社長は、今年で御年85歳
。三味線を作り続けて60年以上がたちます。
社長のこだわりは何といってもその音色。
三味線職人の道に入ってすぐに、本格的に三味線の稽古に励み続けたおかげで、作り手
としてだけではなく、奏者としての顔もお持ちです。
これまで、国立劇場、歌舞伎座、明治座、三越劇場など名だたる舞台に上がってきた社
長が得意とする演目は、なんと「三曲糸のしらべ」と「勧進帳」というのですから、ただ
者ではありません。
酒井「演奏会の前の日はホテルに泊まるんだよ。自分で作った最高の三味線で演奏できる
のがしあわせだね」
そう顔をほころばせる社長からは、三味線に対する愛情がひしひしと伝わってきます。


また、ご自身が作った三味線を奏者がどんなふうに弾いてくれるのかが楽しみで、舞台に
も足を運び、会場の一番後ろの席でその音色に耳を傾けるほどの研究熱心。
最近は、人の声が若干聞こえにくいこともあるそうですが、楽器の音色、ことに三味線
の音だけはどんな些細な音でも聞き分ける、黄金の耳をお持ちです。
そして、最高の音色のために、三味線の材料についてもこだわりぬいています。
三味線の竿として最高級とされる「紅木(こうき)」は、単に輸入されたものを使うの
ではなく、ご自身でインドまで足を運び、実際に紅木が生えているところに行って現物を
見て、さらに折衝を重ねたうえで仕入れるという徹底ぶり。
現地の人も、ただ金をつめば売ってくれるというわけではなく、職人としての確かな目
や熱意がなければ取引をしてくれず、また、実際の売買はシンガポールを経由して行われ
るという非常に込み入ったもの。それでも、あえてその方法を選ぶところが、酒井社長で
す。
紅木はインドの一部地域にしか生息しておらず、現在ではその数が減っています。


触れるとひんやりとした感触があり、非常に密度が高いため、見かけと異なり実際に持
ち上げてみるとその重さに驚かされます。水に入れても浮かばない、火をつけても燃えな
いという特性もあり、昔のインドでは、動物の柵として用いられていたそうです。
空気に触れると黒褐色になりますが、けずりくずはその名の由来でもあるように鮮やか
な紅色。作りたての三味線が紅いのはそのせいだそうです。
紅木が三味線の竿の材料に用いられるようになったのは、百年ほど前から。それ以前は
、花梨、紫檀のほかに、紅葉も使われていたそうです。
また、三味線の「皮」についても、もちろんこだわりをお持ちです。最近では、カンガ
ルーや山羊の皮が用いられることもあり、「試しに張ってもらえませんか?」と社長のと
ころに持ち込まれることもあるそうですが、「そういうのには見向きもしないんですよ」
と、奥様が教えてくださいました。

10代から三味線職人の道に入り、50代になって「やっと皮の張り方がわかってきた
」と仰るその言葉から、ご自身への厳しさ、職人の道を究める志の高さが垣間見えます。
三味線づくりでは、竿は竿屋、張りは張り屋というように分業しているところも少なく
ありません。また、音合わせの為に三味線を弾く職人が圧倒的な中、材料の仕入れも海を
渡って自分の眼で確かめ、さらに三味線づくりのすべての作業を自身でこなし、その上、
演者としても活躍されてきた社長は、三味線界のスーパーマンと言っても過言ではありま
せん。

現在では奏者が減ったことで需要が激減してしまいましたが、最盛期には、朝8時から
夜12時まで、日曜日の休みもなく三味線を作り続けなければならないほど大人気だった
そうです。
やっと休める正月の三が日すらも、日本橋の芸者衆、300を超えるお得意さんへのご
あいさつに費やしたというのですから、当時の隆盛がしのばれます。
そして、今回お店にお邪魔したことで、奥様からも、志づか堂の歩みについてお話を聞
くことができました。
志づか堂の創業者はもともと東京出身。象牙の彫刻をし、奥様と共に象牙のトーテムポ
ールを作って絵付けしたものを輸出するのを生業とされていましたが、1923年(大正12年
)に関東大震災が起こったのをきっかけに、都内から横浜に越してきました。店を構えた
のは、伊勢佐木町の7丁目です。
創業者が「何か人の眼を引くような看板を作ろう」ということで、当時は三味線づくり
はしていませんでしたが、大きなバチの形の看板を掲げたところ、三味線屋と勘違いした
人が次々に店を訪れました。
「それなら三味線屋を始めようか」となったのが、ちょっと冗談のようですが、創業
100年の歴史のスタートだったのです。
創業者も二代目も義太夫を好み、創業者は「静」、二代目は「小静」という名前を持っ
ていました。「静」という字はやや硬いイメージがあるため、店名は「志づか堂」としま
した。


そして、昭和30年ごろ、現在店を構える曙町に移転。
当時は民謡や長唄人気に火が付き始めたころで、花柳界として栄えたこの界隈では、あ
ちらにお琴、こちらに長唄、三味線、そちらに踊りという具合に看板を挙げているお師匠
さんがおり、道をあるくと、そこここから歌や三味の音が聞こえてきたそうです。
金刀比羅大鷲神社(ことひらおおたかじんじゃ)のお酉さまでは、一晩中たき火がたか
れ、町のあちこちにきれいなお姉さんがた歩き、びんつけ油の香りが町中に漂うような、
そんな華やかな時代だったそうです。
また、志づか堂さんの座敷には、近所の子どもたちが集まり、近くの酒屋さんがハモニ
カで越後獅子を奏で、それに合わせて習いたての日本舞踊を披露する。そんなこともあっ
たそうで、取材陣一同、当時のにぎわいに思いをはせてうっとりさせていただきました。

社長が会長をつとめる、全邦連の加盟店はかつては600を超えていたのに、現在は半
数を割っています。それは、跡継ぎがいないというだけでなく、跡を継がせたくても仕事自体がないために断念せざるを得ないという厳しい現実があります。
また、最近では店の電話が鳴ると、「三味線を買ってもらえませんか」という問い合わ
せも増えているそうです。

そういった現状を踏まえたうえで、これからの和楽器や邦楽に何を求めるか、社長にう
かがったところ、次のような言葉が返ってきました。
酒井「弟子を作って育てなさい。上に立って威張るのではなく、愛情をもって弟子を大切
に育てなさい。そして、師匠を大切にしなさい」
人生のほとんどを、三味線にかけてきた社長だからこそ、その一言には計り知れないほ
どの重みと深みを感じました。
酒井社長。これからもお元気で、私たちにいろんなことを教えてください!

(文:松島恵利子)

カテゴリー: インタビュー タグ: , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です